東京のどこかの喫茶店を舞台に綴られる架空の物語。
今回は喫茶TOM。
フランスガム社特製の物語をどうぞお楽しみください。
文・絵 / フランスガム社
㐧二幕 喫茶TOM ~ヒボレヒト・レミの恋~
恋をしたことがありますか?
恋は恋でもこれは、喫茶店に恋をしてしまった娘のお話です。
梅雨の晴れ間の夕暮れでした。
ヒボレヒト・レミは、大きな街の書店に行った帰り、なんとなく隣の駅まで歩いてみることにしました。
夕暮れの風は心地よく、梅雨のどんよりした空気を洗い流してくれるようでした。
駅まであとひと息というところの小道に、ふと現れた建物に心奪われました。
看板には、『喫茶TOM 』とありました。
ヒボレヒト・レミは、どうしても中へ入ってみたくなり、そこで少し休憩することにしました。
扉を開くと優しそうなマダムが迎えてくれました。外から見える窓、あの窓際の席に座りたいと思い二階へ上りました。
階段に沿った壁には琥珀色の古いコーヒー畑の地図。
天井から吊られたランプのあたたかい光が、焦げ茶色の飾り柱から覗いていました。
席に座ると、窓からは向かいのファーストフード店に人々が忙しそうに入れ替わり出入りするのが見えました。
今まで自分が歩いていた場所なのに、この窓から眺めるとどこか別の世界を覗いているように思えました。
ヒボレヒト・レミはすっかり心を奪われました。
メニューの中で気になったコーヒーぜんざい、を注文し、先ほど買った本をぱらぱらとめくりました。
― 恋が生まれるにはほんのわずかな希望があれば十分である。
大学の文学史で同じクラスのコイオオキ・カナに勧められた、スタンダールの『恋愛論』でした。
そんな行を読みつつコーヒー・ゼリーの上のアイスクリームとあずきを掬って食べていると、心の中にほんわりとなにかが生まれるのを感じました。
この気持ちは一体、なあに?!
ヒボレヒト・レミは恋をした事がないわけではありませんでした。
幼馴染みのボーイフレンドもいましたし、大学の美術史の先生のことを密かに素敵だなと思っていました。
だけど、これは今までに味わった事のない気持ちでした。
ヒボレヒト・レミはずっとここに座っていたい気持ちを抑えつつ、お店を後にしました。
次の日も、気がつくとあのお店のことを考えていました。
トム、トム、トム
嗚呼、トム!
頭の中はトムのことで一杯でした。
すぐにでも電車に乗ってトムへ駆け込みたい気持ちになりました。
でも、そんなことをしてしまうと大切な何かが壊れてしまうような気がしました。
この気持ちは一体、何なのかしら?!
次の日も次の日も頭の中はトムのことで一杯でした。
ボーイフレンドのシット・トシナイは、ヒボレヒト・レミが会う度に熱心にトムのことばかり語るので、少し嫉妬する程でした。
「トム、トム、トム! トムって一体誰なのサ!」
* * *
小雨の降る金曜日、大学の授業が午前中で終わったので、ヒボレヒト・レミは電車に乗ってトムを訪れてみることにしました。
お店は変わらずの姿で迎えてくれました。
また窓際の席に座り、ババロアならぬジジロアとストロング珈琲を注文すると、その時間にうっとりと酔いしれました。
この気持ちは一体、なんだろう?!
しんとした空間で、ふんわりとなにかに包まれるような気持ちでした。
先週からなかなか進まない読みかけの本をまたぱらぱらとめくりました。
― 愛する人と共に過ごした数時間、数日もしくは数年を経験しない人は、幸福とはいかなるものであるかを知らない。
もしかしたら、幸福とはこんな感じのものかもしれないな。
ヒボレヒト・レミはぼんやり思い、ジジロアを頬張ると窓の外へ目をやりました。
いつの間にか雨はあがり、アスファルトにキラキラと陽が射していました。
〈おしまい〉
喫茶劇場豆情報1
喫茶トムのメニューにあるジジロアとは、カフェオレ味のババロア。メニューにもあるように、濃いめのストロング珈琲といただくのがおすすめです。
喫茶劇場豆情報2
『ああ、コーヒーの何と美味しいことよ
千のキスより尚甘く、
ムスカート酒より尚柔らかい
コーヒーはやめられない
私になにかくださるというなら、
どうかコーヒーを贈ってくださいな
1732 コーヒーカンタータより
作詞 ピカンダー
作曲 J.S バッハ』
こちらはお会計伝票に載っているコーヒーカンタータの引用文。
コーヒーカンタータとは、バッハが作曲した世俗オペラ。
当時のドイツでは女性はコーヒーを飲むべきではないとされていて、それでもコーヒーを求める女性達がいて...そんなコーヒー事情を風刺して、詩人ピカンダーにより書かれたものだそうです。
francegum社
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